
福澤諭吉記念館の敷地内に移築保存された実母(福澤順)の生家をバックに記念撮影
今年、令和7年1月10日に三田キャンパスで開催された第190回福澤先生誕生記念式典に参加した際に、偶然にも中津三田会の池部幹事長と名刺交換する機会があり、「是非、近いうちに中津へ」と言葉を交わしたのが実際のものとなった。
現地集合・現地解散で全員参加のコンパルサリーイベントは「3時間市内散策」と老舗料亭の「筑紫亭での夕食会」のみ、あとは前泊/後泊を含め一切自由という緩い縛りで相三会会員に参加を呼び掛けたところ最終的に13名が参加を表明、5月16日(金)13時に市内散策のスタート地点である中津駅前に集合した。
当初心配された雨に降られることもなく、敵方の侵入を防ぐべく敢えて街路を曲げて造った初代中津城主黒田官兵衛孝高(如水)の手による、戦国時代の色合いを強く残す城下町を散策しその風情を楽しんだ。漆喰を塗重ねても染み込んだ血の色が中から滲みでてくるため敢えて朱塗りしたという「赤壁」の謂れなど、史実に基づくだけに少々おどろおどろしいものも中にはあった。
スナップ写真は寺町や中津城などを約3.5時間かけて散策した途中で撮影したもの。市内は駅構内のポスターから、駅前広場の銅像、さらに市内循環のバスの側面広告まで、中津市を挙げて「福澤諭吉」先生一色だったのが印象的だった。
各人一旦それぞれのホテルに戻り散策の疲れを癒し、夕刻6時に「筑紫亭」に再集合した。
かおる女将によれば、東九州では数少ない老舗料亭のひとつで今上天皇も宿泊されたよし。なるほど時を重ねた建屋内外の佇まいや、掛け軸、屏風等の調度類の圧倒的重厚さからも、いかにも左様なからんと感じられた。
夕食会には中津三田会から池部幹事長と若手の高西龍太郎氏が参加、地元の銘菓?「福澤諭吉最中」の手土産付きで大いに歓待して貰ったのには恐縮した。スピーチの時間を設け、各人が思い思い中津散策の印象や福沢先生に関するうんちくを披露すると、名物の鱧料理の珍味と地元産銘酒の酔いも加勢し、話はそこから更に拡がりをみせ会場のあちこちで歓談の輪が広がった。
延岡出身の私からは、内藤藩(延岡七万石)と奥平藩(中津十万石)が同じ東九州に配封された同規模の徳川譜代大名であることから内藤・奥平両家の間には親交があり、さすれば福澤先生に関する情報も共有されていた筈で、内藤家の最後の藩主(内藤政挙公)が慶應義塾の名誉塾員であったこと、また延岡藩校が明治5年に閉鎖されたあと明治33年に旧制延岡中学が開設されるまでの30年弱、政挙公の私援で明治初期の延岡の青少年教育を支えた私学校(亮天社)の教師陣が慶応義塾からの派遣であったのも頷ける、との私見を述べさせて貰った。
以下は今回の小旅行で初めて知り得たことだが、江戸中期以降、中津藩奥平家では代々賢公の治世が続き、当時では極めて稀な蘭学推奨の環境が整っていたよし。そのような中で奥平藩医前野良沢の手によるターヘル・アナトミアの和訳本「解体新書」が出版され、共著者の杉田玄白はその翻訳作業の困難さを「蘭学事始」に著している。いずれも青年福澤諭吉に多大な影響を及ぼしたのは間違いなく、後日、福澤先生自らが前野良沢顕彰会に参画し、また「解体新書」復刻版の刊行に携わっていることからもその影響力の大きさが伺い知れる。1853年(嘉永六年)のペリー来航に触発された18歳の福澤先生は、その後の砲術習得を目的とした長崎留学、大阪における緒方洪庵の適塾入門、そして江戸鉄砲洲中津藩邸での蘭学塾開校へと、時代の要請に呼応するが如く、大方がご存知の時間軸に沿って歴史的な奔走を始めるに至るのだが、その流れの源は久しく開明的であった中津の地で育まれていたと言って宜しかろう。
お開きの際には、ミシュラン☆のシェフであり塾員の土生隆一氏にも加わって貰い全員で記念写真に納まった。隆一氏は「筑紫亭」の跡取りで、池部幹事長とは幼馴染みとのことだった。
(世話人 坂元 健)






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